2007年03月02日
☆久しぶりに☆
久しぶりにブログを書きます♪
こんばんはranです☆
最近僕全然ギター弾いてないなぁ
色々と忙しいけど1日1時間くらいは触りたいなぁ
今度友達の結婚式で余興でバンド演奏もするんですけど職場仲間の結婚式なんでなんか緊張しますね
普段とは違う僕を見てもらいましょうかね
まぁ自分達そんなに凄いバンドでもないのでマイペースでやろうと思います
今月下旬には少し大きなライブにも呼ばれてますのでちゃんと練習しなきゃな
みなさんガゼットってバンド分かるかな
まぁ有名だけどビジュアル系バンドなんでちょっと難しいかもなぁ
これがガゼット

んで、僕はここのバンドのコピーでCassisって曲が今度のセットリストに入ってるんだけど結構難しいんだよね
で任されてる以上は頑張るしかないね
べつにプロ思考とかではないけどお客さんに聴いてもらえる喜びは凄く気持ちいし感動だよ
今からバンドやろうと思ってる人は絶対やるべきだね
今月は何かと忙しいけどがんばろうっと
こんばんはranです☆
最近僕全然ギター弾いてないなぁ

色々と忙しいけど1日1時間くらいは触りたいなぁ

今度友達の結婚式で余興でバンド演奏もするんですけど職場仲間の結婚式なんでなんか緊張しますね

普段とは違う僕を見てもらいましょうかね

まぁ自分達そんなに凄いバンドでもないのでマイペースでやろうと思います

今月下旬には少し大きなライブにも呼ばれてますのでちゃんと練習しなきゃな

みなさんガゼットってバンド分かるかな

まぁ有名だけどビジュアル系バンドなんでちょっと難しいかもなぁ

これがガゼット


んで、僕はここのバンドのコピーでCassisって曲が今度のセットリストに入ってるんだけど結構難しいんだよね

で任されてる以上は頑張るしかないね

べつにプロ思考とかではないけどお客さんに聴いてもらえる喜びは凄く気持ちいし感動だよ

今からバンドやろうと思ってる人は絶対やるべきだね

今月は何かと忙しいけどがんばろうっと

Posted by ranki at
19:04
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2007年02月09日
ギターシンセサイザーGR-30

これがギターシンセサイザーGR-30です

ぼくは最近これを購入したのですが全く持ってノイズしかでません♪
誰か分かる方教えて下さい☆
ちなみに
ギター
GR-30
チューナー
ワーミー
ワウ
マルチ
アンプ
って感じで直列に繋いでます♪
2007年02月07日
GLAY♪
こんにちは♪
ranです♪
今年そういえばGLAYがきますよ♪
みなさんGLAYは好きですか
僕的には昔が良かったかなって思いますけど、でも今も好きなんでファンの方は怒らないでくださいね
さて僕はGLAYの中ではやっぱりHISASHIが1番好きですね

HISASHIのあの繊細なギターテクニックが素晴らしいですよ
僕も昔はGLAY等良くCOPYしてましたね~☆
BELOVEDとか弾き語りとかもしました♪
なついなぁ♪
ではまた
ranです♪
今年そういえばGLAYがきますよ♪
みなさんGLAYは好きですか

僕的には昔が良かったかなって思いますけど、でも今も好きなんでファンの方は怒らないでくださいね

さて僕はGLAYの中ではやっぱりHISASHIが1番好きですね


HISASHIのあの繊細なギターテクニックが素晴らしいですよ

僕も昔はGLAY等良くCOPYしてましたね~☆
BELOVEDとか弾き語りとかもしました♪
なついなぁ♪
ではまた


2007年02月06日
hideさん素晴らしい♪パートⅡ
こんにちは♪
ranです☆
今日は前回と引き続きhideのお話をしたいとおもいます♪

hideは難病を患ったファンである少女の「hideに会いたい」という願いを、支援団体を通じて受けたhideは1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介した。その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、少女を励ますことになった。翌年、治療のために骨髄移植手術を受けた少女が手術後の拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となり、彼女の母親から「最期を看取って欲しい」と連絡を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けた。結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は良くなって数ヵ月後には退院する事もできた。その後にhideは「できることをするだけ」とあくまで個人的に骨髄バンクに登録をしたが、その際に所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティングしてしまい、実弟でありhideのパーソナルマネージャーを務めていた松本裕士は、そのことを一切知らなかったと後に出版した追憶本「兄弟」の中で明かしている。記者会見自体は行われたが、その後にhideは「これじゃあ売名行為じゃねえか!!」と言って彼を殴り飛ばした(hide自身ももちろんその事は知らなかった)。慈善活動をひけらかすような行動を嫌っての事であったが、結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献する事となった。
Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以になる。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史などからヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。
ファン想いであることが有名で、大物になるほど回避しがちなTV出演について「地方でライヴに来られないファンの為にも出る」と積極的であったり、「チケット代も安くないのに、更に高いお金を遣わせるのはいけない」と、ソロ活動についての関連グッズは全て5,000円以下であったという。
hideが初めて手にしたギターは新古品のギブソンのレスポール(ナチュラルカラーのレスポールデラックスモデル)であった。祖母に無理だと思って頼んでおいたら、在日米軍横須賀基地内に出入りが出来たのでフリーマーケットで買ってきてくれたという。当時は現在以上に高級品でロック好きには憧れの的であったために、隣の学校や、「友達の友達」という人までが自宅にギターを見に来るという状況になった。
hideの勤めていた美容院の常連にヤクザの娘がいて、その常連が行方不明になったとき、その常連の日記の最後に「松本秀人 サーベルタイガー」と書いてあったため、その関連性を疑われ、車に乗せられる。富士の樹海まで連れて行かれ、自白するよう強要されたが、hideは「分からない。」と主張し続け、なんとか解放してもらう。

hideがサーベルタイガーを解散させ、ミュージシャンを辞める決意をしたとき、親交のあったミュージシャンにその事を電話で話した。しかし、サーベルタイガー時代からhideの活躍ぶりは有名で中にはバンドへの誘いもあったが全部断ってきた。その最後にYOSHIKIに掛けた際、YOSHIKIに「Xに入らない?」と誘われた際、hideは、「ちょっと考えさせて。」と言った。翌日、都内にある居酒屋でそのことを承諾すると、それまでそばでおとなしくしていたTOSHIとTAIJIが歓喜をあげ、酒を飲みまくり挙句の果てには組体操まで行うことになった。
次回はhideの死についてお話したいと思います♪
ranです☆
今日は前回と引き続きhideのお話をしたいとおもいます♪

hideは難病を患ったファンである少女の「hideに会いたい」という願いを、支援団体を通じて受けたhideは1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介した。その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、少女を励ますことになった。翌年、治療のために骨髄移植手術を受けた少女が手術後の拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となり、彼女の母親から「最期を看取って欲しい」と連絡を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けた。結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は良くなって数ヵ月後には退院する事もできた。その後にhideは「できることをするだけ」とあくまで個人的に骨髄バンクに登録をしたが、その際に所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティングしてしまい、実弟でありhideのパーソナルマネージャーを務めていた松本裕士は、そのことを一切知らなかったと後に出版した追憶本「兄弟」の中で明かしている。記者会見自体は行われたが、その後にhideは「これじゃあ売名行為じゃねえか!!」と言って彼を殴り飛ばした(hide自身ももちろんその事は知らなかった)。慈善活動をひけらかすような行動を嫌っての事であったが、結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献する事となった。
Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以になる。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史などからヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。
ファン想いであることが有名で、大物になるほど回避しがちなTV出演について「地方でライヴに来られないファンの為にも出る」と積極的であったり、「チケット代も安くないのに、更に高いお金を遣わせるのはいけない」と、ソロ活動についての関連グッズは全て5,000円以下であったという。
hideが初めて手にしたギターは新古品のギブソンのレスポール(ナチュラルカラーのレスポールデラックスモデル)であった。祖母に無理だと思って頼んでおいたら、在日米軍横須賀基地内に出入りが出来たのでフリーマーケットで買ってきてくれたという。当時は現在以上に高級品でロック好きには憧れの的であったために、隣の学校や、「友達の友達」という人までが自宅にギターを見に来るという状況になった。

hideの勤めていた美容院の常連にヤクザの娘がいて、その常連が行方不明になったとき、その常連の日記の最後に「松本秀人 サーベルタイガー」と書いてあったため、その関連性を疑われ、車に乗せられる。富士の樹海まで連れて行かれ、自白するよう強要されたが、hideは「分からない。」と主張し続け、なんとか解放してもらう。

hideがサーベルタイガーを解散させ、ミュージシャンを辞める決意をしたとき、親交のあったミュージシャンにその事を電話で話した。しかし、サーベルタイガー時代からhideの活躍ぶりは有名で中にはバンドへの誘いもあったが全部断ってきた。その最後にYOSHIKIに掛けた際、YOSHIKIに「Xに入らない?」と誘われた際、hideは、「ちょっと考えさせて。」と言った。翌日、都内にある居酒屋でそのことを承諾すると、それまでそばでおとなしくしていたTOSHIとTAIJIが歓喜をあげ、酒を飲みまくり挙句の果てには組体操まで行うことになった。
次回はhideの死についてお話したいと思います♪
2007年02月03日
hideさん素晴らしい♪
こんばんは♪
ranです♪
寒いですね><
こんな日は布団から出たくないですね
今日はこの人☆

元X JAPANのギタリストのhideを紹介しましょう♪
誰もが知ってるギタリストだと僕は思いますよ♪

1990年代には日本の代表的なロックバンドとなったXで派手な演出や過激なパフォーマンスなどで人気を博し、日本のロックや後のバンドなどに多大な影響を与えた。
1993年から開始したソロ活動では、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなどほとんどを自らが行ったマルチプレーヤーである。
X JAPAN解散後のソロ活動はhide with Spread Beaver名義となった。 hideと、ソロ活動のツアーサポートメンバー(バックバンド)による一つのバンドに近い形態であり、hide曰く「沢田研二とエキゾチックスみたいな感じ」だという。 それとは別にzilch(ヂルチ)という日本国外のミュージシャンと組んだバンド(ユニット)があり、アメリカ(世界)デビューを計画していた。
解散前のXも含めてこれらの活動は基本的に平行して行われていたが、それらが軌道に乗り始めた矢先に死去した。
本名は松本秀人(まつもとひでと)、神奈川県横須賀市出身。血液型はAB型。逗子開成高等学校卒業。
少年時代に肥満児であった事は有名で、内気で大人しい性格でもあった。 また、教育熱心な家庭であったのか塾や習い事に通う忙しい小学生であったという。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。 その当時を知る人は、少年時代のhideからはテレビなどで活躍するhideの姿はとても想像がつかなかったと語っている。
中学生の頃にKISSのレコードを初めて聞いた時に大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。 以後は俗に言う「ロック少年」となり、様々なロックを聴き漁るようになる。 そういった中でhideが強く影響を受けたバンドには、主に、KISS(特にエース・フレーリー)、クラッシュ、アイアンメイデンなどの名前が挙げられる。 山本恭司 (BOW WOW) のファンでもあった。
その後、エレキギターを手に入れたが当初はバンド活動はしておらず、そのまま高校へと進学した。 その進学した高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、不良の溜まり場などと言われていた横須賀のドブ板ストリートに出入りするようになり、そこで出会った仲間達とバンドを結成する。 このバンドがX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」となった(正確には、中学でもバンドを組んだが形だけで音楽活動はしなかった)。
また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。 祖母と言うには若くて派手な人であったために、後のファッションなどの基盤となったとも言われ、更に高校卒業後には美容師の専門学校へと進み、卒業をして実際に美容院で働いてもいた。 「サーベルタイガー」を解散した時には、完全に音楽をやめて美容師として生きていこうと決心をしたが、それはYOSHIKIの誘いにより現実とはならなかった。
hideは基本的にテレビやゲームが好きで、好んで視聴したり遊んだりしていた。 そのために、これらがあるとそればかりをしてしまうために、一年の内の多くを過ごしていたロサンゼルスでは(日本のテレビ番組が放送されないため)音楽ぐらいしかやる事が無く、集中できるために音楽を作るには適した環境と語っていた。 テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。 また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていたために、デビューシングルの『EYES LOVE YOU』のPVではそこから得たアイディアを取り入れている。
hideは酒好きで有名。日本酒が好みらしい。

今日はここまでですが次回はhideと1人の少女との話と突然の死去についいてお話します
ranです♪
寒いですね><
こんな日は布団から出たくないですね

今日はこの人☆

元X JAPANのギタリストのhideを紹介しましょう♪
誰もが知ってるギタリストだと僕は思いますよ♪

1990年代には日本の代表的なロックバンドとなったXで派手な演出や過激なパフォーマンスなどで人気を博し、日本のロックや後のバンドなどに多大な影響を与えた。
1993年から開始したソロ活動では、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなどほとんどを自らが行ったマルチプレーヤーである。
X JAPAN解散後のソロ活動はhide with Spread Beaver名義となった。 hideと、ソロ活動のツアーサポートメンバー(バックバンド)による一つのバンドに近い形態であり、hide曰く「沢田研二とエキゾチックスみたいな感じ」だという。 それとは別にzilch(ヂルチ)という日本国外のミュージシャンと組んだバンド(ユニット)があり、アメリカ(世界)デビューを計画していた。
解散前のXも含めてこれらの活動は基本的に平行して行われていたが、それらが軌道に乗り始めた矢先に死去した。
本名は松本秀人(まつもとひでと)、神奈川県横須賀市出身。血液型はAB型。逗子開成高等学校卒業。
少年時代に肥満児であった事は有名で、内気で大人しい性格でもあった。 また、教育熱心な家庭であったのか塾や習い事に通う忙しい小学生であったという。アメリカへの集団でのホームステイも経験している。 その当時を知る人は、少年時代のhideからはテレビなどで活躍するhideの姿はとても想像がつかなかったと語っている。
中学生の頃にKISSのレコードを初めて聞いた時に大きな衝撃を受け、ロックに目覚める。 以後は俗に言う「ロック少年」となり、様々なロックを聴き漁るようになる。 そういった中でhideが強く影響を受けたバンドには、主に、KISS(特にエース・フレーリー)、クラッシュ、アイアンメイデンなどの名前が挙げられる。 山本恭司 (BOW WOW) のファンでもあった。
その後、エレキギターを手に入れたが当初はバンド活動はしておらず、そのまま高校へと進学した。 その進学した高校が「エレキ禁止」であったためにバンドを組めずにいたが、不良の溜まり場などと言われていた横須賀のドブ板ストリートに出入りするようになり、そこで出会った仲間達とバンドを結成する。 このバンドがX加入以前に活動していた唯一のバンド、「サーベルタイガー」となった(正確には、中学でもバンドを組んだが形だけで音楽活動はしなかった)。
また、「おばあちゃん子」であったhideは美容院を営んでいた祖母からの影響を少なからず受けている。 祖母と言うには若くて派手な人であったために、後のファッションなどの基盤となったとも言われ、更に高校卒業後には美容師の専門学校へと進み、卒業をして実際に美容院で働いてもいた。 「サーベルタイガー」を解散した時には、完全に音楽をやめて美容師として生きていこうと決心をしたが、それはYOSHIKIの誘いにより現実とはならなかった。
hideは基本的にテレビやゲームが好きで、好んで視聴したり遊んだりしていた。 そのために、これらがあるとそればかりをしてしまうために、一年の内の多くを過ごしていたロサンゼルスでは(日本のテレビ番組が放送されないため)音楽ぐらいしかやる事が無く、集中できるために音楽を作るには適した環境と語っていた。 テレビ番組の中では特にお笑い番組が好きで、当時人気を誇っていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」などがお気に入りであり、ダウンタウン(特に松本人志)のファンでもあった。 また、スーパーファミコンソフト『スターフォックス』にはまっていたために、デビューシングルの『EYES LOVE YOU』のPVではそこから得たアイディアを取り入れている。
hideは酒好きで有名。日本酒が好みらしい。

今日はここまでですが次回はhideと1人の少女との話と突然の死去についいてお話します

2007年01月31日
今日はSUGIZOを紹介♪
こんばんはranです♪
昨日は我が尊敬の師匠INORANを紹介しましたが今日はそのINORANとずっとツインを組んできたSUGIZOを紹介したいと思います☆
SUGIZO(スギゾー、1969年7月8日 - )は、日本のミュージシャン・プロデューサーであり、1990年代を代表するビジュアル系ロックバンド・LUNA SEAのギタリストとして知られる。
神奈川県秦野市出身で神奈川県立伊勢原高等学校卒業。身長175cm。音楽一家に生まれ三歳の頃からヴァイオリンを学ぶ。本人曰く、「ロックが好きになった時は、親と大喧嘩してました。」
1989年 LUNACYに加入。
1992年 LUNA SEAとして2ndアルバム『IMAGE』でメジャーデビュー。
1994年 3rdシングル「ROSIER」で一気にシーンのトップに躍り出る。
1995年 初の東京ドームライブを決行。
1997年 自身のレーベル「CROSS」を立ち上げ、シングル「LUCIFER」でソロデビュー。
1998年 LUNA SEAのメンバーとして再び活動再開。
1999年 初のコンピレーションアルバム『GRAND CROSS 1999』リリース。
2000年 東京ドームライブをもってLUNA SEA終幕。
2001年 オフィシャルファンクラブ「SCUZZ」発足。
2001年 映画「Sound Track」で初主演。
2001年 SUGIZO&THE SPANK YOUR JUICEのメンバーとして全国ツアーを決行。
2002年 ジャムバンド・SHAGを結成。
2004年 3月、渋谷O-Eastライブをもって、SUGIZO&THE SPANK YOUR JUICE無期限活動休止。
2004年 7月、ユニットThe FLAREをYUNAと結成、活動を開始。
2006年 2月、初のオリジナルアルバムをリリース、3月、渋谷O-Eastライブをもって、The FLAREのプロジェクト終了。
2006年 12月、YOSHIKIとGacktが2007年に始動させる新バンドにギタリストとして参加することが決定。バンド名は未定。
今後のユニットがめちゃくちゃ楽しみですね☆
昨日は我が尊敬の師匠INORANを紹介しましたが今日はそのINORANとずっとツインを組んできたSUGIZOを紹介したいと思います☆

SUGIZO(スギゾー、1969年7月8日 - )は、日本のミュージシャン・プロデューサーであり、1990年代を代表するビジュアル系ロックバンド・LUNA SEAのギタリストとして知られる。
神奈川県秦野市出身で神奈川県立伊勢原高等学校卒業。身長175cm。音楽一家に生まれ三歳の頃からヴァイオリンを学ぶ。本人曰く、「ロックが好きになった時は、親と大喧嘩してました。」
1989年 LUNACYに加入。
1992年 LUNA SEAとして2ndアルバム『IMAGE』でメジャーデビュー。
1994年 3rdシングル「ROSIER」で一気にシーンのトップに躍り出る。
1995年 初の東京ドームライブを決行。
1997年 自身のレーベル「CROSS」を立ち上げ、シングル「LUCIFER」でソロデビュー。
1998年 LUNA SEAのメンバーとして再び活動再開。
1999年 初のコンピレーションアルバム『GRAND CROSS 1999』リリース。
2000年 東京ドームライブをもってLUNA SEA終幕。
2001年 オフィシャルファンクラブ「SCUZZ」発足。
2001年 映画「Sound Track」で初主演。
2001年 SUGIZO&THE SPANK YOUR JUICEのメンバーとして全国ツアーを決行。
2002年 ジャムバンド・SHAGを結成。
2004年 3月、渋谷O-Eastライブをもって、SUGIZO&THE SPANK YOUR JUICE無期限活動休止。
2004年 7月、ユニットThe FLAREをYUNAと結成、活動を開始。
2006年 2月、初のオリジナルアルバムをリリース、3月、渋谷O-Eastライブをもって、The FLAREのプロジェクト終了。
2006年 12月、YOSHIKIとGacktが2007年に始動させる新バンドにギタリストとして参加することが決定。バンド名は未定。
今後のユニットがめちゃくちゃ楽しみですね☆

2007年01月30日
INORAN♪尊敬的存在♪
こんにちは☆
ranです
今日は僕の尊敬するINORANの紹介でもしましょう
INORAN(イノラン、1970年9月29日 - )は、日本のミュージシャン。90年代を代表するビジュアル系ロックバンド・LUNA SEAのギタリストとして知られています。
神奈川県秦野市出身。神奈川県立大秦野高等学校出身。身長170cm。ギタリストであるが、ソロ活動ではボーカルも担当。自らのファンクラブ「NO NAME?(ノー・ネーム)」を持つ。自身の活動には元LUNA SEAのSUGIZO(ギター)や真矢(ドラム)も参加している。
中学時代にJ(ベース)と出会い、LUNA SEAの原型となるLUNACYを結成し、活動をスタートさせた。
実はSUGIZOとも同じ中学校だったが、学年が違うので気付かなかったとか。(SUGIZOのほうが1つ上。)
LUNA SEA時代は外から見たイメージではもう一人のギタリストSUGIZOの主張の強さと好対照な存在と言うか、一歩引いた所でバランスをわきまえながらそこにいる様な感覚であったが(リズムギターをメインに担当していたことからも伺える)、実際はINORANもまたバンドサウンドの鍵を握る優れたコンポーザーであった。シングル「MOTHER」「gravity」やカップリングの曲もINORAN原曲のものが多い。
LUNA SEAの「アルペジオ職人」の異名を持ち、透明感があり、且つアンビエントな響きを持つ音に定評がある。
LUNA SEAの中ではとにかく発言回数が少なく、真矢曰く「静かなる頑固者」らしい。
音楽を言葉で表現するのはあまり好まないようである。言葉で表現できないから音楽で表現したいとの事。
最近はインタビューでも喋るよう心がけている。自分自身を見つめ直せるかららしい。
自分の喋るスピードに反してスピード狂であり、スキージャンプ・F1・アイスホッケーに興味がある。
コーヒーとタバコが大好き。
はぁ・・・もうかっこいいですね
ranです

今日は僕の尊敬するINORANの紹介でもしましょう

INORAN(イノラン、1970年9月29日 - )は、日本のミュージシャン。90年代を代表するビジュアル系ロックバンド・LUNA SEAのギタリストとして知られています。
神奈川県秦野市出身。神奈川県立大秦野高等学校出身。身長170cm。ギタリストであるが、ソロ活動ではボーカルも担当。自らのファンクラブ「NO NAME?(ノー・ネーム)」を持つ。自身の活動には元LUNA SEAのSUGIZO(ギター)や真矢(ドラム)も参加している。
中学時代にJ(ベース)と出会い、LUNA SEAの原型となるLUNACYを結成し、活動をスタートさせた。
実はSUGIZOとも同じ中学校だったが、学年が違うので気付かなかったとか。(SUGIZOのほうが1つ上。)
LUNA SEA時代は外から見たイメージではもう一人のギタリストSUGIZOの主張の強さと好対照な存在と言うか、一歩引いた所でバランスをわきまえながらそこにいる様な感覚であったが(リズムギターをメインに担当していたことからも伺える)、実際はINORANもまたバンドサウンドの鍵を握る優れたコンポーザーであった。シングル「MOTHER」「gravity」やカップリングの曲もINORAN原曲のものが多い。
LUNA SEAの「アルペジオ職人」の異名を持ち、透明感があり、且つアンビエントな響きを持つ音に定評がある。
LUNA SEAの中ではとにかく発言回数が少なく、真矢曰く「静かなる頑固者」らしい。
音楽を言葉で表現するのはあまり好まないようである。言葉で表現できないから音楽で表現したいとの事。
最近はインタビューでも喋るよう心がけている。自分自身を見つめ直せるかららしい。
自分の喋るスピードに反してスピード狂であり、スキージャンプ・F1・アイスホッケーに興味がある。
コーヒーとタバコが大好き。
はぁ・・・もうかっこいいですね


2007年01月26日
Dir en grey知ってる??
こんにちはranです
今日は僕の大好きなバンドDir en greyについてお話しましょう
彼らは本当に凄い
1996年、Dir en greyの前身となるLa;sadies(Toshiya以外の4人のメンバーが在籍)が結成される。1年の活動期間を経て解散。その後再び京、薫、Die、Shinyaの4人が集まり、Bassに新たにToshiyaを加え、「人間の弱さ、あさはかさ、エゴが原因で引き起こす現象により、人々が受ける様々な心の痛みを世に広める」という意志の元、1997年に結成。
その後すぐに、ヴィジュアル系創世記に東のX、西のCOLORと言われた2大バンドの一方、COLORのボーカリスト、DYNAMITE TOMMYに見出され、彼とEastWestJapanが主宰するインディーズ系新レーベル「ソルフィンステレ」でインディーズデビュー。
初期の頃は、ボーカルの京自身が黒夢のローディーを経験したこともあり、黒服に金髪というファッションや化粧の仕方等に黒夢の影響を強く受けていた。 また、他のメンバーも、それぞれ80年代のバンドに影響を受けている。
インディーズ時代のラストシングルとなる『-I'll-』がオリコンシングルチャートで最高7位に入るという快挙を成し遂げた(それまでのランキング最高記録はXの『VANISHING VISION』の13位、ちなみにこちらはアルバムである)。さらに、インディーズバンド初の日本武道館ライブを行い、これを成功させた。 メジャーデビューの際にはX JAPANのYOSHIKIをプロデュースに迎えたことや、3枚のシングルを同時に発売したことが話題に。この時発売した「ゆらめき」「残 -ZAN-」「アクロの丘」はそれぞれオリコンで5,6,7位を記録。話題のヴィジュアル系バンドとしてミュージックステーションにも出演し「残 -ZAN-」を歌った。が、あまりに過激なパフォーマンスと演出により番組終了後に視聴者、特に子供を持つ主婦などから苦情が寄せられたこともある。これはミュージックステーションが始まる前にクレヨンしんちゃんが放送されていたことと、Dir en greyがトップバッターを切ったがために、そのまま番組を継続してみていた子供が多かったせいでもある。
京はそれまでのヴィジュアル系に無かった強烈なシャウト、デスヴォイス、異様に鼻に掛かった声、ファルセット等を使い、今日のヴィジュアル系ヴォーカルの基礎を作った。またそんな京に魅かれて音楽活動を始めたものも多く、ガゼットのルキ、蜉蝣の大佑、メリーのガラ、など、京を尊敬する者も多い。
初期にはプロデューサーとしてNEW VORGUEのCHIKA、X JAPANのYOSHIKI、ホッピー神山、COLORのTATSUYA等を迎えたが、ポップ色が強くなる事を避けるためセルフプロデュースとなっているが、過激な表現が強くなっていってる事から、フリーウィルの主宰者DYNAMITE TOMMYがプロデューサーという人も多い。
[編集] 『MACABRE』以降
『MACABRE』以降はそれ以前の綺麗系ヴィジュアルではなく、ホラー映画の様なメイクや演出で激しいパフォーマンスを行っている。音楽面でも単なるロックのみならず、ミクスチャー音楽やハードコアパンク、和風なテイストも取り入れるなど、個性的なサウンドを確立している。また、ヴィジュアル面においても、曲のコンセプトに合わせた強烈なインパクトを持つファッションをしていて、メジャーデビュー以降、あまりメイクをしなくなったり、曲調もポップな路線に変更していくヴィジュアル系バンドが多く現れる中でも異彩を放っていた。PVに関してもグロテスクな表現を多用したものが多く、あまりの激しさにレコード会社EastWestJapanやソニーミュージックから規制がかけられたものも少なくない。その過激さゆえに一般のロックリスナーから批判を受けることもあり、2004年に起きたKLACK事件では一部の人間によって”こういう過激な表現が若いミュージシャンに過激な行為を誘発する”と彼らのPVが引き合いに出されてしまうこともあった。 映像規制をかけられた代表的なものには、VULGARに収録されている「OBSCURE」や、「朔-saku-」などがある。 また、ノーカットバージョンはフリーウィルから直接発売されたPV集AVERAGE PSYCHOにて確認できる。また、歌詞の規制があったものは 「GAUZE+1」に収録の「mazohyst of decadence」で、PVの規制もあったが、歌詞のほうも、「奇形児」とオリジナルの歌詞にはあったが、アルバムに収録されている歌詞には「きcage」と歌われており、発売元レコード会社が原曲にノイズを流した。また14thシングル「embryo」の歌詞内容が近親相姦をモチーフにしたものであったためにレコード会社からの要求で急遽シングル用に歌詞を書き換えた。尚、この時規制がかかった歌詞のバージョンは、3rdアルバム「鬼葬」に収録されている。尚、京の詩には虐待が題材となっているものが多く、これらは彼が実体験として幼い頃からの両親(特に父親)の虐待じみた過激なスパルタ教育が元となっているものが多い。
そして、京のライブパフォーマンスには目を見張る物がある。ステージでは「リストカット」「体中を引掻き血を流す」「自ら頬を殴り吐血」「歌いながら自慰的行為」→「口の中を引っ掻き吐血」など音楽性と共に激しさを増してきている。しかしそれだけに彼の肉体・精神にかかる負担は過酷なものであり、セカンドアルバム『MACABRE』発売後のツアー中に突発性難聴を患いツアーを中断(この件が以降の音楽性の変化の一因になっている)、その後も急性扁桃炎などの体調不良でツアーをたびたび中断・中止している。また、ライブ中に自ら後方に倒れこみコンクリートの床に頭部をぶつけ気絶し、病院に運ばれたこともある。
しかしDir en greyは上に挙げたようにライブでは過激なパフォーマンスを行うが、インタビューなどを見ると実際のメンバーは全員真面目で物静かである。特にボーカルの京に至ってはインタビュー等では誰よりも冷静に自分や世の中の事をしっかり見ている人物である。しかしFOOLS MATE等の雑誌のインタビューで棘のある発言をする事が非常に多いので一部のファンや一般のリスナーから批判を受けている。
[編集] 海外での活動
Dir en greyは国内のみならず、海外進出も積極的に行っている。2002年には東アジア4カ国7公演(上海、香港、台湾、韓国など)を含む「列島激震行脚」と題したアジアツアーで述べ10万人を動員し大成功を収めている。ヨーロッパでは、以前よりアルバムがドイツ・フランスで各3万枚の売上を記録していたが、2005年に欧州最大級のロックフェスティバル「Rock am Ring」、「Rock im park」への出演を果たしたことをきっかけにヨーロッパでも本格的にブレイク、フィンランドのヒットチャートで、アルバム『Withering to death.』がランクイン、シングル『CLEVER SLEAZOID』が初登場15位にランクインした。さらに2年連続となる同フェスでメインステージで自傷パフォーマンスを行い、ファンを熱狂させた。同様にドイツでは同アルバム(『Withering to death.』)がチャートで7位にランクインするという快挙を成し遂げた。2006年5月にはアルバム『Withering to death.』(2006年5月24日付、米・ビルボード週間インディペンデントチャート42位。これはラウドネスのアルバム『LIGHTNING STRIKES』(ビルボード・アルバム・チャートで64位)に次ぐ快挙といわれている。)を引っさげ、全米デビュー。そのデビューに先駆けたアメリカでのライブは5000人クラスのライブ会場をソールドアウトさせている。
2006年8月、アメリカのミクスチャーロックバンド・Kornが主催する北米ツアー「THE FAMILY VALUES TOUR」へ参戦。そのKornのヴォーカル、ジョナサン・デイヴィスはDir en greyについて“日本で最高にクレイジーでサイコティックなバンド”と絶賛している。 また同年10月へヴィメタルフェス「LOUD PARK 06 」に出演し、インターネット上で話題を呼んだ(翌日にはヴィジュアル系バンドムックが参加)。
2006年末、アメリカ大手音楽専門チャンネルMTVの人気番組「ヘッドバンガーズ・ボール」で、2005年に新設された視聴者が選定するPV音楽賞(HEADBANGERS BALL PV 2006)に、Dir en greyの『朔-saku-』(2004年発売)のプロモーションビデオが日本のロックバンドの作品として初めてノミネートされ、見事グランプリを獲得した。[1]
2007年には自らがヘッドライナーとしてアメリカを回るツアー「TOUR07 INWARD SCREAM」が予定されており、ニューアルバム、THE MARROW OF A BONEが2007年2月7日にリリース決定。
このようにDir en greyは昨今、海外で最も高い売上を記録している日本のバンドであり、また高い評価も得ている。オリコン調べでは、ドイツ、アメリカ、アイルランドで日本のバンドと言えば、「Dir en grey」という答えが80%を占める程であり、アメリカグラミー賞の公式サイトでも紹介記事が掲載されるなど[2]欧米で現在最も注目される日本人アーティストとなっている。
僕の大好きな盤です☆
聞いてみてくださいね☆
かなり衝撃な部分もありますよ☆

今日は僕の大好きなバンドDir en greyについてお話しましょう

彼らは本当に凄い

1996年、Dir en greyの前身となるLa;sadies(Toshiya以外の4人のメンバーが在籍)が結成される。1年の活動期間を経て解散。その後再び京、薫、Die、Shinyaの4人が集まり、Bassに新たにToshiyaを加え、「人間の弱さ、あさはかさ、エゴが原因で引き起こす現象により、人々が受ける様々な心の痛みを世に広める」という意志の元、1997年に結成。
その後すぐに、ヴィジュアル系創世記に東のX、西のCOLORと言われた2大バンドの一方、COLORのボーカリスト、DYNAMITE TOMMYに見出され、彼とEastWestJapanが主宰するインディーズ系新レーベル「ソルフィンステレ」でインディーズデビュー。
初期の頃は、ボーカルの京自身が黒夢のローディーを経験したこともあり、黒服に金髪というファッションや化粧の仕方等に黒夢の影響を強く受けていた。 また、他のメンバーも、それぞれ80年代のバンドに影響を受けている。
インディーズ時代のラストシングルとなる『-I'll-』がオリコンシングルチャートで最高7位に入るという快挙を成し遂げた(それまでのランキング最高記録はXの『VANISHING VISION』の13位、ちなみにこちらはアルバムである)。さらに、インディーズバンド初の日本武道館ライブを行い、これを成功させた。 メジャーデビューの際にはX JAPANのYOSHIKIをプロデュースに迎えたことや、3枚のシングルを同時に発売したことが話題に。この時発売した「ゆらめき」「残 -ZAN-」「アクロの丘」はそれぞれオリコンで5,6,7位を記録。話題のヴィジュアル系バンドとしてミュージックステーションにも出演し「残 -ZAN-」を歌った。が、あまりに過激なパフォーマンスと演出により番組終了後に視聴者、特に子供を持つ主婦などから苦情が寄せられたこともある。これはミュージックステーションが始まる前にクレヨンしんちゃんが放送されていたことと、Dir en greyがトップバッターを切ったがために、そのまま番組を継続してみていた子供が多かったせいでもある。
京はそれまでのヴィジュアル系に無かった強烈なシャウト、デスヴォイス、異様に鼻に掛かった声、ファルセット等を使い、今日のヴィジュアル系ヴォーカルの基礎を作った。またそんな京に魅かれて音楽活動を始めたものも多く、ガゼットのルキ、蜉蝣の大佑、メリーのガラ、など、京を尊敬する者も多い。
初期にはプロデューサーとしてNEW VORGUEのCHIKA、X JAPANのYOSHIKI、ホッピー神山、COLORのTATSUYA等を迎えたが、ポップ色が強くなる事を避けるためセルフプロデュースとなっているが、過激な表現が強くなっていってる事から、フリーウィルの主宰者DYNAMITE TOMMYがプロデューサーという人も多い。
[編集] 『MACABRE』以降
『MACABRE』以降はそれ以前の綺麗系ヴィジュアルではなく、ホラー映画の様なメイクや演出で激しいパフォーマンスを行っている。音楽面でも単なるロックのみならず、ミクスチャー音楽やハードコアパンク、和風なテイストも取り入れるなど、個性的なサウンドを確立している。また、ヴィジュアル面においても、曲のコンセプトに合わせた強烈なインパクトを持つファッションをしていて、メジャーデビュー以降、あまりメイクをしなくなったり、曲調もポップな路線に変更していくヴィジュアル系バンドが多く現れる中でも異彩を放っていた。PVに関してもグロテスクな表現を多用したものが多く、あまりの激しさにレコード会社EastWestJapanやソニーミュージックから規制がかけられたものも少なくない。その過激さゆえに一般のロックリスナーから批判を受けることもあり、2004年に起きたKLACK事件では一部の人間によって”こういう過激な表現が若いミュージシャンに過激な行為を誘発する”と彼らのPVが引き合いに出されてしまうこともあった。 映像規制をかけられた代表的なものには、VULGARに収録されている「OBSCURE」や、「朔-saku-」などがある。 また、ノーカットバージョンはフリーウィルから直接発売されたPV集AVERAGE PSYCHOにて確認できる。また、歌詞の規制があったものは 「GAUZE+1」に収録の「mazohyst of decadence」で、PVの規制もあったが、歌詞のほうも、「奇形児」とオリジナルの歌詞にはあったが、アルバムに収録されている歌詞には「きcage」と歌われており、発売元レコード会社が原曲にノイズを流した。また14thシングル「embryo」の歌詞内容が近親相姦をモチーフにしたものであったためにレコード会社からの要求で急遽シングル用に歌詞を書き換えた。尚、この時規制がかかった歌詞のバージョンは、3rdアルバム「鬼葬」に収録されている。尚、京の詩には虐待が題材となっているものが多く、これらは彼が実体験として幼い頃からの両親(特に父親)の虐待じみた過激なスパルタ教育が元となっているものが多い。
そして、京のライブパフォーマンスには目を見張る物がある。ステージでは「リストカット」「体中を引掻き血を流す」「自ら頬を殴り吐血」「歌いながら自慰的行為」→「口の中を引っ掻き吐血」など音楽性と共に激しさを増してきている。しかしそれだけに彼の肉体・精神にかかる負担は過酷なものであり、セカンドアルバム『MACABRE』発売後のツアー中に突発性難聴を患いツアーを中断(この件が以降の音楽性の変化の一因になっている)、その後も急性扁桃炎などの体調不良でツアーをたびたび中断・中止している。また、ライブ中に自ら後方に倒れこみコンクリートの床に頭部をぶつけ気絶し、病院に運ばれたこともある。
しかしDir en greyは上に挙げたようにライブでは過激なパフォーマンスを行うが、インタビューなどを見ると実際のメンバーは全員真面目で物静かである。特にボーカルの京に至ってはインタビュー等では誰よりも冷静に自分や世の中の事をしっかり見ている人物である。しかしFOOLS MATE等の雑誌のインタビューで棘のある発言をする事が非常に多いので一部のファンや一般のリスナーから批判を受けている。
[編集] 海外での活動
Dir en greyは国内のみならず、海外進出も積極的に行っている。2002年には東アジア4カ国7公演(上海、香港、台湾、韓国など)を含む「列島激震行脚」と題したアジアツアーで述べ10万人を動員し大成功を収めている。ヨーロッパでは、以前よりアルバムがドイツ・フランスで各3万枚の売上を記録していたが、2005年に欧州最大級のロックフェスティバル「Rock am Ring」、「Rock im park」への出演を果たしたことをきっかけにヨーロッパでも本格的にブレイク、フィンランドのヒットチャートで、アルバム『Withering to death.』がランクイン、シングル『CLEVER SLEAZOID』が初登場15位にランクインした。さらに2年連続となる同フェスでメインステージで自傷パフォーマンスを行い、ファンを熱狂させた。同様にドイツでは同アルバム(『Withering to death.』)がチャートで7位にランクインするという快挙を成し遂げた。2006年5月にはアルバム『Withering to death.』(2006年5月24日付、米・ビルボード週間インディペンデントチャート42位。これはラウドネスのアルバム『LIGHTNING STRIKES』(ビルボード・アルバム・チャートで64位)に次ぐ快挙といわれている。)を引っさげ、全米デビュー。そのデビューに先駆けたアメリカでのライブは5000人クラスのライブ会場をソールドアウトさせている。
2006年8月、アメリカのミクスチャーロックバンド・Kornが主催する北米ツアー「THE FAMILY VALUES TOUR」へ参戦。そのKornのヴォーカル、ジョナサン・デイヴィスはDir en greyについて“日本で最高にクレイジーでサイコティックなバンド”と絶賛している。 また同年10月へヴィメタルフェス「LOUD PARK 06 」に出演し、インターネット上で話題を呼んだ(翌日にはヴィジュアル系バンドムックが参加)。
2006年末、アメリカ大手音楽専門チャンネルMTVの人気番組「ヘッドバンガーズ・ボール」で、2005年に新設された視聴者が選定するPV音楽賞(HEADBANGERS BALL PV 2006)に、Dir en greyの『朔-saku-』(2004年発売)のプロモーションビデオが日本のロックバンドの作品として初めてノミネートされ、見事グランプリを獲得した。[1]
2007年には自らがヘッドライナーとしてアメリカを回るツアー「TOUR07 INWARD SCREAM」が予定されており、ニューアルバム、THE MARROW OF A BONEが2007年2月7日にリリース決定。
このようにDir en greyは昨今、海外で最も高い売上を記録している日本のバンドであり、また高い評価も得ている。オリコン調べでは、ドイツ、アメリカ、アイルランドで日本のバンドと言えば、「Dir en grey」という答えが80%を占める程であり、アメリカグラミー賞の公式サイトでも紹介記事が掲載されるなど[2]欧米で現在最も注目される日本人アーティストとなっている。
僕の大好きな盤です☆
聞いてみてくださいね☆
かなり衝撃な部分もありますよ☆
2007年01月25日
☆V系バンド☆
初めまして♪
今日から初ブログのranです♪ちなみにオスです!!
こういうビジュアル系とか偏見されがちで受け入れてくれない方々も多いですが僕は好きなのでこの場を借りていろいろ語れればいいかなぁ?っと思います♪
僕のブログを読んで下さった方々とたくさんの情報交換や思いや意見等をたくさん交わせたらいいなぁと思います♪
今現在活動している好きなバンドや過去に活動されてましたバンド等なんでもいいのでお話しちゃいましょう

今日から初ブログのranです♪ちなみにオスです!!

こういうビジュアル系とか偏見されがちで受け入れてくれない方々も多いですが僕は好きなのでこの場を借りていろいろ語れればいいかなぁ?っと思います♪

僕のブログを読んで下さった方々とたくさんの情報交換や思いや意見等をたくさん交わせたらいいなぁと思います♪

今現在活動している好きなバンドや過去に活動されてましたバンド等なんでもいいのでお話しちゃいましょう

