hideさん素晴らしい♪パートⅡ

ranki

2007年02月06日 17:12

こんにちは♪

ranです☆

今日は前回と引き続きhideのお話をしたいとおもいます♪


hideは難病を患ったファンである少女の「hideに会いたい」という願いを、支援団体を通じて受けたhideは1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介した。その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、少女を励ますことになった。翌年、治療のために骨髄移植手術を受けた少女が手術後の拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となり、彼女の母親から「最期を看取って欲しい」と連絡を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けた。結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は良くなって数ヵ月後には退院する事もできた。その後にhideは「できることをするだけ」とあくまで個人的に骨髄バンクに登録をしたが、その際に所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティングしてしまい、実弟でありhideのパーソナルマネージャーを務めていた松本裕士は、そのことを一切知らなかったと後に出版した追憶本「兄弟」の中で明かしている。記者会見自体は行われたが、その後にhideは「これじゃあ売名行為じゃねえか!!」と言って彼を殴り飛ばした(hide自身ももちろんその事は知らなかった)。慈善活動をひけらかすような行動を嫌っての事であったが、結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献する事となった。
Xの「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」というフレーズを考案。これがヴィジュアル系という言葉を生み出したのはhideと言われる所以になる。また、hideが音楽界に与えた視覚面や音楽面の影響は多大で、音楽ライターの市川哲史などからヴィジュアル系はhideから始まってhideで終わったとも言われている。
ファン想いであることが有名で、大物になるほど回避しがちなTV出演について「地方でライヴに来られないファンの為にも出る」と積極的であったり、「チケット代も安くないのに、更に高いお金を遣わせるのはいけない」と、ソロ活動についての関連グッズは全て5,000円以下であったという。
hideが初めて手にしたギターは新古品のギブソンのレスポール(ナチュラルカラーのレスポールデラックスモデル)であった。祖母に無理だと思って頼んでおいたら、在日米軍横須賀基地内に出入りが出来たのでフリーマーケットで買ってきてくれたという。当時は現在以上に高級品でロック好きには憧れの的であったために、隣の学校や、「友達の友達」という人までが自宅にギターを見に来るという状況になった。
hideの勤めていた美容院の常連にヤクザの娘がいて、その常連が行方不明になったとき、その常連の日記の最後に「松本秀人 サーベルタイガー」と書いてあったため、その関連性を疑われ、車に乗せられる。富士の樹海まで連れて行かれ、自白するよう強要されたが、hideは「分からない。」と主張し続け、なんとか解放してもらう。

hideがサーベルタイガーを解散させ、ミュージシャンを辞める決意をしたとき、親交のあったミュージシャンにその事を電話で話した。しかし、サーベルタイガー時代からhideの活躍ぶりは有名で中にはバンドへの誘いもあったが全部断ってきた。その最後にYOSHIKIに掛けた際、YOSHIKIに「Xに入らない?」と誘われた際、hideは、「ちょっと考えさせて。」と言った。翌日、都内にある居酒屋でそのことを承諾すると、それまでそばでおとなしくしていたTOSHIとTAIJIが歓喜をあげ、酒を飲みまくり挙句の果てには組体操まで行うことになった。

次回はhideの死についてお話したいと思います♪

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